2000PTニューヨークの思い出
2005年1月13日 マジック超遠距離レスをされ、昔のPTを思い出してたらかなりテンションが上がってきたので、長文を書く事にしました。
1999年12月。チンネン17歳の冬でした。
PTニューヨーク札幌予選(エクステンデット)という大会があるというのをデュエリストジャパンを読んで知ったチンネンは一人で函館から札幌へと5時間かけて向かいました。
その頃のチンネンと言えば、平日は毎日剣道部で練習し全道大会に出場できるくらいの実力、月木土は部活の後に空手道場に通うスポーツ少年のように見せかけつつも、心の中はマジック一色で剣道空手をさぼる事はなかったのですが、家に帰ってくると延々と一人マジックに励み、土日は友達の家で一日中マジックという生活をしていました。高校生として人並みの恋の経験もあったのですが、その時のチンネンがしたい事の占める割合はマジック9割他1割でした。それほどにマジック熱が高かったこの時期のマジック的青春の一ページです。
PTQには赤単ランデスで出場し、予選ラウンドを4−0−2で通過。決勝ラウンド1回戦目にカウンタースリバーを倒し、2回戦目には白ウィニーを撃破。決勝戦ではキタ氏が使用するストンピィに敗れてしまったのですが、2位でPT権利は獲得。この時のチンネンは自分がマジック最強って信じていた頃なのですが、実際の所デッキ構築、プレイング共に相当な下手クソでした。しかし、世界を知らないチンネンはPTという舞台でも負ける気がしない状態でした。
2000年4月。チンネンは大学入学のため札幌に移住。
一緒にPTに同行するキタ氏とPT2週間くらい前から調整をする事になりました。札幌市内には当時マジック喫茶なるものが有ったので、二人でそこでプレイテストを重ねました。
PTのレギュレーションはブロック構築で、レベルが蔓延する事は当時ペーペーのチンネンにも安易に想像ができたので、チンネンはレベルデッキや青単水位の上昇デッキや赤単ランデスを作り、キタ氏は自分オリジナルの赤単ランデスで出場する気だったのですが、チンネン手持ちデッキすべてに惨敗。それでもランデスで出場しようとするキタ氏にチンネンは「レベルで出場するのが無難ですよ」と言い続けましたが、キタ氏はチンネンのアドバイスに耳を貸す事なく、ランデスで出場する事を決めました。
当時キタ氏は28歳でチンネンは18歳。旅行の手配はすべてチンネン。海外旅行中の通訳はすべてチンネンという、なんとも不思議な海外旅行がスタートしました。
PTニューヨークに出場する為にニューヨークのホテルに宿をとり、ニューヨーク市内をうろついていると、「ニュートラルグラウンド」という名のマジックショップを発見し、入ってみました。店の中ではジョンフィンケルや、ズビーモーショウィッツが普通にデュエルをしていて、かなりトキメキました。なぜかPT出場用デッキに《噴出/Gush》が足りなかったので、その店でトレードしようと、外人に「Do you have ガッシュ?」って聞くと、外人は頭の上に?マークが3つ程。ズビーがやってきて、「どんなカードだよ?」って聞いてきたので、効果を説明すると「Oh!ギィッシュ!!」と理解されました。「ガッシュ」じゃなくて「ギッシュ」らしいです。その後ズビーはその事に対して「シシシッ!」って声で笑いっぱなし。その後会場に行き受付を済ませると、日本人トッププレイヤーの方々が「一緒に食事しませんか?」と言ってきたので、同行させてもらう事になりました。
食事したレストランは巨大なステーキが出てくる中級レストランでした。巨大な肉との格闘に破れ、食後には「チンネン君はどんなデッキで出場するの?」と言われ、出場予定の水位の上昇デッキを見せました。「ここを変えた方がいいよ」「このデッキはありえない」などのアドバイスを貰いましたが、頑固で馬鹿なチンネンはそんなアドバイスも聞き入れず、デッキをまったく変更させる気はありませんでした。
PTが始まり、最初の対戦が組まれるとそこにいたのはニコライヘルツォグ。当時からある程度活躍のあった彼の事は知っていたので、多少怯えながらデュエルが始まってみると、水位の上昇同キャラでした。しかし、ニコライとチンネンのデッキには一つだけ決定的な差が!ニコライのフィニッシャーは《ドレイクの雛/Drake Hatchling》でチンネンは《年季奉公のジン/Indentured Djinn》。3マナ4・4飛行で場に出た時に相手が3枚ドロー。普通にありえないと思われるだろうけど、対レベルではこのクリーチャーが一番優良でした。でも相手は青単《退去の印章/Seal of Removal》を3枚置かれ、ニコライに12枚引かせて惨敗。
2回戦目の相手はラファエルレビー。デッキは白単レベル。レベルにはジンが強いので、1戦目を楽勝で取り、2戦目は上昇を引けずに負け、3戦目はコントロールしきった後に時間切れで引き分けになってしまいました。
残りのラウンドはレベル、青赤ランデス、黒緑、レベルと当たって最終成績は2−4−1でした。マジックでここまで負けた事がなかったので、「世界には強い人がいっぱいいるんだなぁ」と思いました。
初日のラウンド合間に会場前で喫煙していたら、外人に「火貸してケロ」って言われて、話込んでたら友達になりました。アメリカで一番流行ってるタバコはなんだ?って聞いたり、どんなスポーツやってんの?って聞いたりして交流してました。彼とは後のGP札幌で再会。
会場前喫煙では思い出に残った事件が多数あります。まずは世界チャンピオンのヤコブスレマーを生で見れた事。あまりの興奮でヤコブに「握手して下さい」って言って軽く拒否された記憶があります。他にもMさんとHさんが怪しいアングラトークをしてるのを盗み聞いてたり。
海外の文化の違いや空気の違いで、かなり舞い上がっていたチンネンはこの日の夜眠る事ができませんでした。
次の日は二日目に残ったキタ氏の観戦をする事にしました。
二日目に残った人とは思えないプレイングの酷さでした。スクイーを5ターン連続戻し忘れるとか、土地2枚の相手に《地震の魔道士/Seismic Mage》で殴りはじめるとか。一緒に観戦していた、プロプレイヤーの方々は「あんなでマジック勝てるなら俺はやめようかな」って言ってました。
キタ氏はプレイングの酷さを引きでカバーしながら24位に入賞。PTNYの日本人最上位者です。
プロプレイヤーの方達もあんなに下手で勝ったキタ氏をいじりまくってました。キタ氏はその時にお父さんが釣りに行く時のようなベストを着用していて、関西勢の方々から「釣り人」というあだ名をつけられていました。本当は俺がスポットライトを浴びる予定だったんだけど、釣り人の予想外の活躍により、チンネンのあだ名は「釣り人の付き人」になってしまいました。テンションの高い関西プレイヤーの方達は「釣っとく〜?」を連呼してました。この時チンネンは関西の人のテンションの高さに感動しました。
帰る日になり、空港で無修正のエロ本を3冊くらい買ってターミナルに待機してると、関西勢の方々が。関西勢と飛行機が一緒だったので、近くの座席に座らせてもらい、ミーハーチンネンの質問攻めのコーナーが開催されていました。雑誌でしか見る事の無い人たちだったので、チンネンは最初に見た時に「実在する人だったんだぁ」と思ってました。「マジックのプロプレイヤーはカラオケに行くんですか?彼女はいるんですか?」などの立ち入った質問をしつづけ、皆様を困らせていました。
マジックミーハーなチンネンにとっては、モーヲタがモーニング娘と旅行するのと同じくらいの喜びで、プロプレイヤーの方々と旅行させてもらってました。
3000字書いたのでGG。
1999年12月。チンネン17歳の冬でした。
PTニューヨーク札幌予選(エクステンデット)という大会があるというのをデュエリストジャパンを読んで知ったチンネンは一人で函館から札幌へと5時間かけて向かいました。
その頃のチンネンと言えば、平日は毎日剣道部で練習し全道大会に出場できるくらいの実力、月木土は部活の後に空手道場に通うスポーツ少年のように見せかけつつも、心の中はマジック一色で剣道空手をさぼる事はなかったのですが、家に帰ってくると延々と一人マジックに励み、土日は友達の家で一日中マジックという生活をしていました。高校生として人並みの恋の経験もあったのですが、その時のチンネンがしたい事の占める割合はマジック9割他1割でした。それほどにマジック熱が高かったこの時期のマジック的青春の一ページです。
PTQには赤単ランデスで出場し、予選ラウンドを4−0−2で通過。決勝ラウンド1回戦目にカウンタースリバーを倒し、2回戦目には白ウィニーを撃破。決勝戦ではキタ氏が使用するストンピィに敗れてしまったのですが、2位でPT権利は獲得。この時のチンネンは自分がマジック最強って信じていた頃なのですが、実際の所デッキ構築、プレイング共に相当な下手クソでした。しかし、世界を知らないチンネンはPTという舞台でも負ける気がしない状態でした。
2000年4月。チンネンは大学入学のため札幌に移住。
一緒にPTに同行するキタ氏とPT2週間くらい前から調整をする事になりました。札幌市内には当時マジック喫茶なるものが有ったので、二人でそこでプレイテストを重ねました。
PTのレギュレーションはブロック構築で、レベルが蔓延する事は当時ペーペーのチンネンにも安易に想像ができたので、チンネンはレベルデッキや青単水位の上昇デッキや赤単ランデスを作り、キタ氏は自分オリジナルの赤単ランデスで出場する気だったのですが、チンネン手持ちデッキすべてに惨敗。それでもランデスで出場しようとするキタ氏にチンネンは「レベルで出場するのが無難ですよ」と言い続けましたが、キタ氏はチンネンのアドバイスに耳を貸す事なく、ランデスで出場する事を決めました。
当時キタ氏は28歳でチンネンは18歳。旅行の手配はすべてチンネン。海外旅行中の通訳はすべてチンネンという、なんとも不思議な海外旅行がスタートしました。
PTニューヨークに出場する為にニューヨークのホテルに宿をとり、ニューヨーク市内をうろついていると、「ニュートラルグラウンド」という名のマジックショップを発見し、入ってみました。店の中ではジョンフィンケルや、ズビーモーショウィッツが普通にデュエルをしていて、かなりトキメキました。なぜかPT出場用デッキに《噴出/Gush》が足りなかったので、その店でトレードしようと、外人に「Do you have ガッシュ?」って聞くと、外人は頭の上に?マークが3つ程。ズビーがやってきて、「どんなカードだよ?」って聞いてきたので、効果を説明すると「Oh!ギィッシュ!!」と理解されました。「ガッシュ」じゃなくて「ギッシュ」らしいです。その後ズビーはその事に対して「シシシッ!」って声で笑いっぱなし。その後会場に行き受付を済ませると、日本人トッププレイヤーの方々が「一緒に食事しませんか?」と言ってきたので、同行させてもらう事になりました。
食事したレストランは巨大なステーキが出てくる中級レストランでした。巨大な肉との格闘に破れ、食後には「チンネン君はどんなデッキで出場するの?」と言われ、出場予定の水位の上昇デッキを見せました。「ここを変えた方がいいよ」「このデッキはありえない」などのアドバイスを貰いましたが、頑固で馬鹿なチンネンはそんなアドバイスも聞き入れず、デッキをまったく変更させる気はありませんでした。
PTが始まり、最初の対戦が組まれるとそこにいたのはニコライヘルツォグ。当時からある程度活躍のあった彼の事は知っていたので、多少怯えながらデュエルが始まってみると、水位の上昇同キャラでした。しかし、ニコライとチンネンのデッキには一つだけ決定的な差が!ニコライのフィニッシャーは《ドレイクの雛/Drake Hatchling》でチンネンは《年季奉公のジン/Indentured Djinn》。3マナ4・4飛行で場に出た時に相手が3枚ドロー。普通にありえないと思われるだろうけど、対レベルではこのクリーチャーが一番優良でした。でも相手は青単《退去の印章/Seal of Removal》を3枚置かれ、ニコライに12枚引かせて惨敗。
2回戦目の相手はラファエルレビー。デッキは白単レベル。レベルにはジンが強いので、1戦目を楽勝で取り、2戦目は上昇を引けずに負け、3戦目はコントロールしきった後に時間切れで引き分けになってしまいました。
残りのラウンドはレベル、青赤ランデス、黒緑、レベルと当たって最終成績は2−4−1でした。マジックでここまで負けた事がなかったので、「世界には強い人がいっぱいいるんだなぁ」と思いました。
初日のラウンド合間に会場前で喫煙していたら、外人に「火貸してケロ」って言われて、話込んでたら友達になりました。アメリカで一番流行ってるタバコはなんだ?って聞いたり、どんなスポーツやってんの?って聞いたりして交流してました。彼とは後のGP札幌で再会。
会場前喫煙では思い出に残った事件が多数あります。まずは世界チャンピオンのヤコブスレマーを生で見れた事。あまりの興奮でヤコブに「握手して下さい」って言って軽く拒否された記憶があります。他にもMさんとHさんが怪しいアングラトークをしてるのを盗み聞いてたり。
海外の文化の違いや空気の違いで、かなり舞い上がっていたチンネンはこの日の夜眠る事ができませんでした。
次の日は二日目に残ったキタ氏の観戦をする事にしました。
二日目に残った人とは思えないプレイングの酷さでした。スクイーを5ターン連続戻し忘れるとか、土地2枚の相手に《地震の魔道士/Seismic Mage》で殴りはじめるとか。一緒に観戦していた、プロプレイヤーの方々は「あんなでマジック勝てるなら俺はやめようかな」って言ってました。
キタ氏はプレイングの酷さを引きでカバーしながら24位に入賞。PTNYの日本人最上位者です。
プロプレイヤーの方達もあんなに下手で勝ったキタ氏をいじりまくってました。キタ氏はその時にお父さんが釣りに行く時のようなベストを着用していて、関西勢の方々から「釣り人」というあだ名をつけられていました。本当は俺がスポットライトを浴びる予定だったんだけど、釣り人の予想外の活躍により、チンネンのあだ名は「釣り人の付き人」になってしまいました。テンションの高い関西プレイヤーの方達は「釣っとく〜?」を連呼してました。この時チンネンは関西の人のテンションの高さに感動しました。
帰る日になり、空港で無修正のエロ本を3冊くらい買ってターミナルに待機してると、関西勢の方々が。関西勢と飛行機が一緒だったので、近くの座席に座らせてもらい、ミーハーチンネンの質問攻めのコーナーが開催されていました。雑誌でしか見る事の無い人たちだったので、チンネンは最初に見た時に「実在する人だったんだぁ」と思ってました。「マジックのプロプレイヤーはカラオケに行くんですか?彼女はいるんですか?」などの立ち入った質問をしつづけ、皆様を困らせていました。
マジックミーハーなチンネンにとっては、モーヲタがモーニング娘と旅行するのと同じくらいの喜びで、プロプレイヤーの方々と旅行させてもらってました。
3000字書いたのでGG。
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